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バンド募集

ウルトラ募集

tommytown






『写真は、1990年ぐらいだろうか。やっぱり現在と比べると、当時のステージはかなり綺麗な感じがする。こんなに赤が似合うステージは他にないと当時から思っていた。』

※ファンダンゴでは、各日のチケットの電話予約・E-mail予約を
受け付けています。お気軽にお問合せ下さい


吠えろ!ファンダンゴ!!
#220 回想1(1987〜1991)


1987年といえば、いわゆるバブルのまっただ中、もしくはそれが終焉へと向かっている途中だったような気がする。 バブルなんて言葉は、喫茶店で読む新聞や、家で聴くラジオで知っていた用語なだけで、実際のところバブル景気というものは何だったのか、 僕は今だに分からないでいる。もしかしたら、その頃生活している過程で、バブルに恩恵や被害を被っていたのかも知れないが、 そんな事より与えられた日々をどれだけ楽しく、食いっぱぐれのないように生きるのに必死だった。そんな1987年の10月にファンダンゴは産声を挙げたのだった。 ブルーハーツがデビューした年で、この頃前後からバンドブームが巻き起こったかと記憶しているが、それは定かでない。お洒落な小粋なライブスペースとしてオープン したファンダンゴにとってバンドブームとは無縁であった。バブル絶世期を象徴するような銀一色の外観並びに店内には、日々アダルトな音楽が流れ、 それを肴に紳士淑女が飲食を楽しむ。そんなライブハウスというかライブスペースだったのだ。最初の一年はブッキング会社がブッキングしていたので、 ブッキングのほとんどをその会社に委ねていた。それで儲かっていたら話は別だが、赤字続きで、上からは毎日のように文句を言われ、遂には閉店の話まで 持ち上がる始末であった。当時働いていた人達は全員20代のイケイケ揃いだったので、毎晩のように聞かされるアダルトミュージックや毎晩のように聞かされる 上からの説教に耐えきれないようになって、ブッキングを自分達の手でやる事を決意したのが一周年を迎えた頃である。ただ、自分達だけの手で店を動かし始めたからって、 そんな簡単に経営が上向くはずもない。度重なる社長からの閉店勧告に反抗し続た若きスタッフ達が思いついた作戦が、気持ちの悪い銀一色の外観並びに 店内を自分達の好みの色に塗り替えるというものだった。当時出演していたバンドマン、毎晩のように呑みに来ていたアメリカのサーカス団員、知り合いの 芸術家等を無理矢理集め、たった一日で全てを塗り替えてしまったのだった。これが今のファンダンゴの原形となっている。社長に内緒で強引に進めた作戦だった為、 芸術なのか落書きなのか紙一重の外観並びに店内、ゴリゴリに削られたエントランスを見た社長が泡を吹いて倒れたと噂で聞いたが、それは定かでない。 壁の色が変わって、スタッフの意識が変わって、店の雰囲気が変わったら、次第にバンドが集まって来たのだった。今でも現役バリバリで活動しているウルフルズや ガーリックボーイズやリクオなどのアーティストはこの頃からの付き合いである。この頃のチケット代は1000円、ドリンク代は今だに当時と一緒である。

1989年初頭に昭和天皇が亡くなって、年号が平成に変わった。僕はただそれを遠巻きに見ていただけで、特に何の感情もなかった。世間はバンドブームであった。 あらゆる雑誌でバンド特集が組まれ、テレビやラジオでもバンドの音が引っ切りなしに流れていた。そして、次から次へとインディーズバンドがメジャーデビューを 果たした。そんなブームのお陰もあってか、ファンダンゴもライブハウスとしてバンドマンやお客さんかあら認知されるようになり、そんなに多くはなかったがツアーで 寄ってくれるバンドも増えた。僕が初めてファンダンゴに遊びに来たのはこの頃である。東京で活動しているフールズというバンドを見に来たのだった。 出来て間もないはずなのに、もう既に老舗のように感じたのが僕のファンダンゴに対する第一印象だった。十三という町の混沌とした感じに見事に溶け込んでいる 外壁の印象的なペイント、ゴリゴリに削られたコンクリート剥き出しのエントランス、一度見たら忘れられないステージの壁、未来の宇宙船に迷い込んでしまったかの ようなホール、煙草の煙と酒の匂い。当時、西成にあったエッグプラントというライブハウスとは違った意味での不良っぽさを感じた。それから間もなくして エッグプラントは惜しまれながらも閉店した。関西アンダーグラウンドシーンを一手に担っていたエッグプラントが無くなってしまった事は、当時のバンド界隈では 本当に大きな事件だった。それは、非常階段、ボアダムス、S.O.B.、少年ナイフ、他、当時の日本の音楽シーンを牽引していた錚々たる関西のバンドがエッグプラントを 根城にしていたからである。1990年に入って、ファンダンゴにもエッグプラントで活動していたバンドがちょこちょこと出演してくれるようになった。その頃から、 ファンダンゴに出演するバンドのジャンルの幅が広がって、それらのバンドに影響を受けたり与えたりで、ファンダンゴはライブハウスとして成長していく事が 出来たのではないだろうか。この年の5月から僕はファンダンゴで働き出した。その頃の夜の十三は、今と違って人で溢れかえっていた。駅前に乱立する安飲み屋、 そこら中にあるスナックビル、キャバレー、ピンサロ、映画館、ゲームセンター、ラブホテル。どこか下町感のある大人の遊び場に、夜な夜な人が集まって来るのだった。 酔っぱらいしかいないと言われていた十三だから、北大阪に住むものは子供の頃から十三に近づくなと言われていたという。そんな不良大人が遊ぶ町に僕は毎日通う事に なったのだ。

ファンダンゴに来るまでの僕は決まった仕事もせず、何の気なしに生きていただけだったから、ファンダンゴで働きだしての毎日は凄く刺激的だった。 連日連夜繰り広げられる強烈なライブ、これまで接した事がなかったジャンルの人達、初めて飲む酒の数々、夜中じゅう灯っている派手なだけのネオン。 その全てが刺激的だった。その当時のライブハウスは、何かが蠢いていたのだ。その何かを言葉で現すのは難しいが、言うなれば、混沌としたその中で何か知らん 熱いものが動き回っている感じである。そんな中、1991年になって、バブルが終焉に向かって、それと同時にバンドブームも終焉を迎えるのだった。 (文/加藤鶴一)
(文:加藤鶴一)





※震災関連の復興支援に関して※
現在、ファンダンゴ受付にて
「九州北部豪雨災害・復興支援募金箱」を、
バーカウンターにて
「東日本大震災復興支援募金箱」
を設置しております。


11/13(月)&11/14(火)の二日間、東北沿岸部をまわり、 FANDANGOでお預かりしていた東北復興募金のお金で購入した知育グッズ、発表会用のシールや文房具、お絵かきボードをお渡しさせて頂きました! まだまだ続けて行きますので、出来る範囲でご協力の程、宜しくお願い致します。

『NBC作戦本舗』
『南相馬の託児所「KID'S CLUB」』
『ONE WORD FOR ONE WORLD』
『東北ライブハウス大作戦』
『夢ママ(岩手県大船渡長沢仮設代表)』




*十三駅前ションベン横丁復興支援に関して*
大火災から2年7ヶ月、10月1日に「しょんべん横丁」が
復活を果たしました。
これもひとえに、商店街の方々の努力と
ご支援頂いた皆々様の情熱の賜物です。
まだまだオープンしてない店舗もありますが、
この後続々とオープンしていくみたいなので、
是非とも新しく生まれ変わった
「しゃんべん横丁」を覗きに来て下さい。
尚、ファンダンゴには「しょんべん横丁復興支援Tシャツ」が
大量に残ってますので、十三に遊びに来た記念に
買って頂けたら嬉しいです。
詳細は以下のリンクから。

『十三駅前ションベン横丁復興支援Tシャツ販売中!!』
『十三トミータウン(ションベン横丁)復興の進捗状況』

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